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旧MOROCOLO

購入したCDやゲーム等の日記です。 SINCE : 2008.11.24

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森本繁 / 明石掃部

キリシタン武将 明石全登(通称 掃部)とその一族の小説。
父 景親は備前守護 浦上宗景の家老として仕えていたが宇喜多直家が天神山城に攻め込んでくると内応しこれに従った。このため明石家は客将待遇となり国政の中枢に立つことはなく、小田原や九州、朝鮮出兵にも掃部の名は無い。
ところが1599年に起きた宇喜多家中騒動により戸川、浮田、岡、花房ら家老をはじめ譜代の家臣約70人が徳川方に走ると宇喜多秀家は明石掃部を家老の後釜に据えた。
執政となった掃部は人材不足となった組織を立て直し1600年に勃発する関ヶ原の戦いに一万七千の兵を率いて参戦するが西軍は敗走し、ここから長い逃亡生活が始まる。
暫く九州 黒田家の庇護のもと秋月で布教活動を行い永住の地と定めるが、黒田如水や熱心なキリシタンである黒田惣右衛門が亡くなると当主の黒田長政はキリシタン弾圧へと態度を変えた為、長崎に新天地を求めた。
しかし弾圧の勢いは既に長崎にも延びており明石一族は風雲急を告げる大坂城へと入城する。
ここで掃部は宇喜多秀家を豊臣方の総大将に迎えるべく使者を送るが、八丈島へ流刑となった秀家はすっかり島民となりもはや打倒徳川の戦意は無い。秀家の招聘に失敗し、大坂の陣では五人衆(真田幸村、後藤又兵衛、毛利勝永、長宗我部盛親)となり戦うが大坂城は落城する。
舟で九州へ逃亡し台湾に渡った掃部は台湾領有をめざすスペイン政府の前線基地を作るべく布教活動を行う。だが上陸してきたオランダ軍の攻撃により窮地に追い込まれ、奮戦するが敵の銃火器にはかなわず戦死する。

関ヶ原敗戦後の逃走経路や各地での布教活動について細かく書かれており資料や調査の説明部分が多い。明石全登について詳しく知る事ができる一冊なのだが、活躍よりも敗戦や失敗の連続なので少し悲しくなってしまう。。。

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